一隅を照らす(2)(二石)
皆さん、こんにちは。
中村哲さんを紹介します。
「解剖学教室へようこそ」や「バカの壁」を書いた養老孟司さんや、「生物と無生物のあいだ」や「動的平衡」を書いた福岡伸一さんなどと同じように、今日、紹介する中村哲さんも「昆虫記」を書いたファーブルに憧れて、幼少時は昆虫博士と呼ばれ、標本箱に色とりどりの虫が並んでいました。成績が良くて山や自然を愛する子どもでした。終戦翌年の1946年に生まれた中村さんは、両親の実家がある北九州で育ちました。祖父は港湾事業に携わっていて、労働者が集まり、在日コリアンも多くいました。祖母からは、「差別はいけない」、「職業に貴賎はない」と常に言い聞かされていました。
10代の時に出会った牧師の影響で洗礼を受けて「人の役に立つ仕事をする」決意をしました。虫に興味がありましたが、厳格なお父さんの反対を恐れて、1浪して九州大学医学部に入学しました。転機が訪れたのは1978年でした。パキスタンの7千メートル峰登山隊に医師として同行しました。中村さんが医師だと聞いて現地の重篤患者が集まってきましたが、診察も治療も出来ず、栄養剤を渡すのが精一杯でした。
その時の心苦しさや憤りを引きずったまま日本に帰国しましたが、現地に忘れものを届けるために、6年後の1984年にパキスタン北西部のペシャワルに飛び込んで診療所で働き始めました。隣国のアフガニスタンでは旧ソ連が軍事侵攻して戦闘が続いていました。
アフガンの住民と民族や風習が同じペシャワルの周辺には多数の難民が流入してきました。そこで1986年に、中村さんは本格的に難民への診療を始めました。1989年には、アフガニスタンでの医療活動を開始しました。
それから、1991年にはアフガニスタン東部の山中ダラエヌールに最初の診療所を開設しました。住民がみんな銃を持つ地域で、武器を持たない援助は周囲の目を引きました。政府からの妨害、スタッフたちの事故死を乗り越えて「丸腰の支援」は次第に住民の支持を得ていきました。
2000年に大干ばつが起きると、「医療だけでは人の命は救えない」と、中村さんは、日本人の若者たちを募って、飲料水用の井戸、約1600本とかんがい用の井戸を掘り、多くの地下水路を修復しました。
うつむいて訥々と話されるシャイな性格でしたが、中村さんの長年の実績に裏打ちされた言葉は重いです。「戦争協力が国際貢献とは言語道断。誰もそこに行かぬから、我々が行く。」
中村哲さんは昨年12月4日にアフガニスタンで銃撃、殺害されました。
Rest in Peace, Mr.Tetsu Nakamura.
(副校長 二石政彦)