『一隅を照らす』
皆さん、こんにちは。
瀬戸上健二郎さんを紹介します。
瀬戸上さんは、昭和34年、志布志高校3年の時に盲腸の手術を受けました。1週間経っても歩けず、貧血を起こして倒れました。別の病院に行ってセカンドドクターに診てもらうと腹部にバケツ1杯ほどの内出血があったそうです。完治するまで3か月かかりましたが、仲良くなったセカンドドクターに進路相談をしたところ、弁護士か医者を薦められました。猛勉強をして東北大学法学部と鹿児島大学医学部に合格。迷いを断ち切った決め手は、セカンドドクターの「医者の仕事は面白いぞ。」の一言でした。
昭和41年に奄美大島の住用診療所でインターンとして2週間赴任。
その後、鹿児島大学から「南九州病院」に移り、外科医長まで務められました。転機となったのは、独立開業を目指して病院を辞めた時でした。当時の下甑村から「ハント氏だけでもいいから来て欲しい」と頼まれ、昭和53年に奥様を連れて下甑村に赴任されました。
赴任当初の診療所は、ウミガメが産卵のために上陸する砂浜の前にあり、医者は瀬戸上先生だけで、看護師2人、事務員2人の計5人でした。病床は6室ありましたが、手術台は錆びていて、麻酔機もない状態でした。島で手術ができるか、住民も不安だったのでしょう。本土の病院で多くの手術をしてこられた瀬戸上先生でも、最初は手術を断られました。
「島へ赴任したことは大歓迎だが、それはイコール信頼ではない。信頼関係は容易に築けるものではなく、実績を示しながら、時間をかけて作り上げていくしかなかった。」と先生は振り返っていらっしゃいます。
不十分だった施設やスタッフの拡充に努めて、朝から深夜まで離島医療の最前線で奮闘されました。簡単な盲腸の手術から、専門の肺がんの手術以外に、島で勉強しながら帝王切開、人工股関節やペースメーカーの挿入や植え込みなどを習得されました。仲間のお医者さんたちと協力して、難しい腹部大動脈瘤の手術も成功させました。
新しい診療所は、昭和61年に新築移転して人工透析室を配置しCT機器も導入されました。病床数は19室に増えて、スタッフも2人の医者、13人の看護師を含む、29人になりました。
半年の滞在のつもりが38年以上過ぎ去った理由を聞かれると、先生は、「地域医療のやりがいと面白さを知ったから」と答えられましたが、「悔しい、情けない思いもいっぱいしてきた。それでも続けられたのは、島と、そこに暮らす人々の魅力。島民の『最後の砦』を守りたかった。」とおっしゃっています。
島の人たちは先生を、尊敬の意味を込めて「瀬戸神さあ(セトガンサア)」と慕っています。
漫画家の山田貴敏さんが、瀬戸上先生の、プロフェッショナルそのものの医療活動とシャイで謙虚なお人柄に接して、「Dr.コトー診療所」を世に出されたのは大いに頷けます。
(副校長 二石 政彦)